© 中村 航 Wataru Nakamura

SIGMA 12-24mm F4 DG HSM | Art インプレッション

シグマの12-24mmという超広角ズームはこれが3代目であると、シグマの製品紹介にある。2003年、2011年、そして2016年。初代と2代目はF4.5-5.6という開放値だったが、この3代目ではいよいよF4通しとなった。そもそも2代目は初代の基本設計を引き継いだリファインであるから、今回のレンズは13年ぶりの新設計ということになる。実際に手にしてみると、大きく、ずしりとした手応え。「小さくて軽い」はそれ自体が性能だし、私もしばしばその恩恵に預かるが、反面、レンズの大きさと重さはその写りの性能を如実に表すものでもある。要は使い分けなのだ。

高倍率ズームが「それ1つで何でも出来る」アーミーナイフだとしたら、この12-24mmは「使い道が限定された」柳刃包丁だと言える。調理の方法と材料が予め決まっているなら、それにいちばん適した包丁を選ぶ。使い道が限定されているがゆえに、快適な使い心地と、完璧な結果を約束してくれるだろう。ただし、そういう包丁は使い手を選ぶ。このレンズも同じだ。

いや、使い手を選ぶと言っても、この場合は写真の腕のことではない。たった12-24mmという「なんでも自由自在に撮れるわけではない」ズームレンズ1本で目の前の光景と勝負したい。最高の結果を出したい。そのためには多少大きかろうが、重かろうがまったく構わない。そういう写真に捧げる気概と闘志さえあれば、このレンズを手にする資格はすでにあるし、その思いはきっと叶えられると思う。

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まずは水辺に向かう

超広角レンズを手にした時、自然と水辺に足が向かってしまうのは、これはもう人間の性なのだと思っている。開けた景色。それをまっぷたつに分ける水平線。空の表情。水面の動き。遠くの景色。近くのモノや人物。難しいことを考えずに超広角レンズを楽しむには、まずは水辺からなのだ。広い景色を広く撮る。そこから始めてみよう。

© 中村 航 Wataru Nakamura

都会のど真ん中に人工的に作られた砂浜。学校帰りの女子高生が二人、座り込んで話をしている。話題は将来のことか、あるいは異性のことか。青春だなあ。お尻の下にハンカチを敷いているのだが、ほとんど役に立っていないのがおかしい。ワイド端12mmの開放。画面中心から外に向かうにしたがって像が変形していくのは避けようのないことで、女子高生の姿がほんの少しデフォルメされ始めているが、それでもこの程度だ。

© 岩木 十三 Juzo Iwaki

首都高速に架かる橋。ワイド端12mmで撮りたいところだが、ほんの少し狭めて15mm。12mmだとどうしても余計な構造物が画面に入ってしまうのだが、自分は一歩も動けないという状況。ファインダーを覗きながら慎重にズームリングを回し、それが画面から消えたのが15mmだった。ズームレンズの利点を「それ一本で済むこと」と答えるなら、それだけでは説明が不足している。正確には「焦点距離を無段階に変えられる」ことだ。構図を厳密に考え始めると、ズームレンズが一番という結論になる。

© 岩木 十三 Juzo Iwaki

日本の首都を流れる河の夕暮れ。夕陽が沈むスピードは思いのほか速い。雲の動きも同じ。「あっ!」と思った時にすぐ撮れることが大事なら、悪いことは言わないから小さくて軽いレンズにした方がいい。しかし私は、この場所から夕陽を撮るために何十分も前からスタンバイしている。「あっ」と思って慌ててバッグからカメラを取り出すわけではない。被写体の変化を確認しながら、撮るべき瞬間にきっちりシャッターを切り、その結果が最高であることだけを望んでいる。そのためには、やはりこのレベルのレンズが必要になる。

© 岩木 十三 Juzo Iwaki

このレンズの試作品を持ってこれらの写真を撮り歩いていた期間、関東地方はひたすら雨か曇りであった。雨の日には雨の写真を、曇りの日には曇りの写真を撮ればいいのだが、こうもお日様が拝めないと気分が腐りもする。どうせ晴れないならと、雲の表情が出やすい早朝に出かけてみた。超広角レンズというと歪みの少なさばかりに目が行くが(もちろんそれは極めて重要なことだけど)、広く撮れるということは、画面の大部分を空が占める写真がおのずと量産されることでもある。空の色や雲の描写はどうか?太陽光線の影響はどう出るか?レンズと空の関係については、予め知っておいた方がいい。

© 岩木 十三 Juzo Iwaki

作例撮影に許された時間がもうわずかしか無いのに、関東地方はずっと先まで雨か曇りの予報。日本各地の天気予報を見ても、南の海上には台風がいくつも列を作っていて、どこも似たような、あるいはもっとひどい天候のようだ。しかし唯一晴れマークが出ているところがあった。新潟だった。となれば行くしかない。F8まで絞っているとは言え、水平線はどこまでもまっすぐで、その向こうに見える町並みも細部までくっきり。真正面から差し込む太陽も、無粋なゴーストで二人の邪魔をするような真似はせずにいたらしい。

タテモノに囲まれる

このレンズで建築物を撮ることを前提としながら、このインプレションを眺められている方も多くいらっしゃると思う。歪まないことが求められる被写体の筆頭だ。とはいえ、これはシグマのArtラインのレンズだ。もはやその点を我々が心配する必要はない。そのレンズで何を、どのように撮るのか。そこを心配しよう。

© 中村 航 Wataru Nakamura

ダイナミックな構図は、それだけで見た人にインパクトを与える。そのような写真においては、レンズの善し悪しなどものともしない例もたくさんあるだろう。しかし、冒頭に書いたアーミーナイフと柳刃包丁の話をここでも持ち出したい。アーミーナイフでも刺身は作れる。素材さえ良ければ、じゅうぶんに美味しいはずだ。でも、切れ味鋭い柳刃包丁を使って、美しく盛りつけた刺身と並べてみたらどうか。「どちらも味は一緒でしょ?」ともし言われるなら、古今東西の料理に対するあらゆるこだわりは、その瞬間にすべて無駄になってしまう。

© 中村 航 Wataru Nakamura

建築物はすべて目的をもって作られる。中には栄華の象徴だったり、建築技術そのものの誇示という例だってあるだろう。しかし殆どの建築物の目的は生活である。まるでクリストの芸術のように、巨大な建物を生活という名の薄いベールがすっぽりと覆う。被写体が何であろうと個人的に惹かれるのは、人間の営みの痕跡がそこに見えるものだ。F11まで絞っているが、周辺がまったく流れていないことに注目して欲しい。

© 中村 航 Wataru Nakamura

カメラを縦に構えてみる。それだけで世界が一変するのは超広角レンズならでは。静寂。ひんやり。厳か。写真から受ける印象を言葉にするとそんなところか。実際、ここはそういう場所だ。だからそのように写っているわけだが、それは決して当たり前のことではない。ここで窓や柱がもし歪んで写っていたら、写真から受ける印象にはだいぶ雑味が混じるはずだ。

© 中村 航 Wataru Nakamura

説明的な分かりやすいカットも入れておこう。歪みに関してはご覧の通り。シグマが謳う「ゼロ・ディストーション」に噓偽りはない。あとはこれを活かして我々がどんな写真を撮るかという問題だけが、一向に解決されないまま残る。

© 中村 航 Wataru Nakamura

超広角レンズにおけるステレオタイプな構図だが、だからこそ、このレンズの優秀さが際立つ。絞り開放だが、近距離から遠景まで、そして画面中心から周辺まで、まず文句のつけようがない描写がされている点をご確認いただきたい。さらに、まっすぐとか、歪んでるという話ばかりではない。画面の右手前、歩道橋に取り付いているパイプのあたり。この妖しい陰影、グラデーションの描写を見てワクワクするようになったら、あなたの病状もだいぶ進行していると思っていい。心から早期回復をお祈りするが、まぁ無理だろう。

SNAPS!

超広角レンズが威力を発揮する場面として、スナップも忘れてはならない。「スナップにはもっと小さくて軽いレンズの方が・・」確かにそうだ。でも、敢えて大きなカメラとレンズで「私は写真を撮る者です。今、まさに写真を撮っています」というオーラを強烈に発しながら、堂々と撮ってみる。意外とその方がやりやすいことも多々ある。

© 岩木 十三 Juzo Iwaki

カメラを構えた瞬間に、こんな素敵な被写体がタイミングよく横切ってくれるなんてことは、日頃の行いがよほど良くない限りは稀だ。稀にしかないということは、稀にはあるということ。神様ありがとう。もともと歪みのない素直な描写なだけに、テレ端の24mmに設定すれば、いかにも超広角然としたデフォルメは完全に回避される。35mm、いや50mmで撮ったと言っても、意外に信じてしまうのではないか。

© 中村 航 Wataru Nakamura

ワイド端12mmの縦位置。足下1mのところから急に沸き起こる浮遊感。あるいは目眩(めまい)感と言った方が正確か。これは敢えてデフォルメを強調した撮ってみた。まっすぐに、すっくと立つ街灯が、その不思議な感覚を余計に助長する。この街灯が樽や糸巻きに湾曲していたら、全てが台無しなのは、想像してみれば分かる。

© 岩木 十三 Juzo Iwaki

「人の気配」を撮る。想像力がかき立てられる。我々は現実の世界に住んでいるが、その中で見いだす喜びや興味(時には不安も)の発端はすべて「よく分からないものに対する想像」だ。好きな人ができることもそうだ。子供が成長していくこともそうだ。そんな大層な例じゃなくても、今日の晩ごはんは何かな?とか。これはテレ端24mm。素直な写りは、想像の邪魔をしない。

© 中村 航 Wataru Nakamura

12時20分の中華料理屋。以前は毎日のように通っていたが、生活の拠点が変わって気軽に行ける距離ではなくなってしまった。思い立って久しぶりに行ってみると、特に歓迎されるわけでもなく、かと行って無愛想でもなく、「あら。」だけ。でもそれが嬉しい。店に行く前からこの構図は頭にあった。ごく普通の空間でも、人間の視野を凌駕した画角が普通ではない空間に描き変えてくれる。仕切りのアクリル板にこびりついた油でさえ、美しいエフェクトのように見えてくる。もちろん気のせいだが。

© 岩木 十三 Juzo Iwaki

シグマの想像力

すごいレンズだ。よくぞこれを作ったものだと思う。最初は気になった大きさや重さも、この写りを見た後では完全に納得するし、実際のところ、そこまで文句をつけるほど大きいわけでも、重いわけでもない。私がちょっと意地悪なだけだ。

曲率の大きい巨大な前玉は、それだけでただならぬ気配を感じさせる。鏡胴にフィックスされたフードの奥で、その前玉がズームリングの動きに合わせてなめらかに前後する様は、さながら深海に棲む未知の生物のようでもある。その前玉に合わせた大きな径をもつピントリングは、マニュアルフォーカス時の微調整が容易だ。じゅうぶんな幅があるので指のかかりもいいし、動きも適切だ。こういう五感に訴える点をシグマはよく分かっているし、妥協がない。その手前にあるズームリングの動きもまた、しっかりとしたトルク感とともに確実な操作ができるように、万全の配慮がされている。

肝心の写りも、ここまで見ていただいたように(これがシグマのサイトに掲載されるという特別な事情を差し引いても)、およそ文句のつけようがない。それを実現するためのいろんな新技術やチャレンジについては、商品紹介のページに詳しく書いてあるので是非お読みいただきたいが、私の見解では、そこには大事なことが一つ抜けている。

レンズの性能を表現する時、「見たままに写る」という言い方をしばしばする。「肉眼で見たもの」と「写真に撮ったもの」を比較した場合に、その差が少ないという意味で、レンズの開発をする時の、一つのよりどころでもある。しかし人間の視野よりはるかに広い超広角レンズでは、そもそも較べるものがない。「見たままに」と言いたくても、誰も見たことがないのだ。では、何をよりどころにメーカーはそのレンズの画を作り上げるのか。それはもう、メーカーの想像力でしかない。その想像力に対してユーザーが膝を叩くか、首を傾げるかという問題だ。その点、シグマの持つ最高の技術はその「想像力」ではないかと、私は思っているのだが。