© 中村 航 Wataru Nakamura

SIGMA 20mm F1.4 DG HSM | Art インプレッション

シグマレンズのArtラインに、20mm F1.4というレンズが加わった。

現在、Artラインの単焦点レンズには、50mm F1.4 / 35mm F1.4 / 24mm F1.4の3つがある。そのラインナップがさらに広角側に広がったことになるが、聞くところによれば、35mm判フルサイズをカバーするデジタルカメラ用交換レンズとして、このスペックは世界初だそうだ。

今、シグマが世界初にチャレンジした理由を想像してみる。

28mm、あるいは24mmあたりまでなら、人間の視野の再現、という範疇にかろうじて収まるけれど、これが20mmともなると、もう完全に人間の視野を凌駕している。さらにそこへF1.4という明るさが加わると、いったい何が起きるのか。

強いパースペクティブを活かしてダイナミックな写真を撮れるのが超広角レンズだが、一方で絵が平坦になりがちな面もある。F1.4の被写界深度の浅さによって、狙った一点だけを浮き上がらせ、「立体的な超広角写真」を可能にする・・・というのが、まず当然あるだろう。

しかし、焦点距離と開放F値だけでそれが叶えられるわけではない。ボケ味や解像感といった、数値で表せない性能もじゅうぶんに高くなければ、これは上手く行かない。

もちろん、このスペックによる恩恵は他にもいろいろあると思う。スペック以前の、「絵ごころ」の部分だって大事だ。いずれにせよ、出来るだけ長い時間をかけて、様々な場面で使ってみないと分からない。我々はそれを確かめに出かけることにした。

ここにあるすべての画像は、一番下にあるギャラリーでオリジナルサイズのイメージをご覧いただけます

自然の風景 Landscapes, Seascapes

20mmという超広角レンズを手にして、まず撮りたくてウズウズするのは、やはり広い風景だ。しかし20mm F1.4というスペックを考えたら、手近な公園や郊外でというわけにはいかない。しっかり計画を立て、準備をし、時間と手間をかけてこちらから出向かないと、このレンズと対峙出来る被写体には出会えない。そんな自然の風景を求めて、日本を東へ西へ。

© 中村 航 Wataru Nakamura

9月中旬。東京はまだ猛暑の真っ只中にあったが、ここはすでに厚手のパーカーを着ていても震えるほど。幻想的な朝靄はその表情を刻々と変え、ちょっと気を抜くとすっかり様相が変わっていたりする。まだ太陽が顔を出す前の、じゅうぶんな光量が得られない時間帯ではあったが、そこはさすが開放F1.4。ISO感度を上げずに、三脚無しでもなんとか手ぶれを抑えられるシャッタースピードを選択することが出来た。

© 中村 航 Wataru Nakamura

ファインダーを覗いた瞬間、昇ってきた朝日と、飛ぶ鳥が重なった。反射的に右手の人差し指が動く。原寸イメージを見ると、鳥が羽ばたく時、羽の先はこういうカタチをしているのだということが、この大きさでもよく分かる。大地を覆い尽くす植物がどのように解像しているか。遠くの丘陵や木立の濃淡がどのように描き分けられているか。そのあたりもじっくりとご覧いただきたい。

© 中村 航 Wataru Nakamura

うららかな日ではあったが台風の影響で風が強い。長く突き出た堤防の先端で誰かが釣りをしている。時折、大きな波がやって来るが怖くないのだろうか?と心配しつつ、波が打ち付ける瞬間を狙ってシャッターを切った。砕ける波を原寸イメージで観察していたら、ふと富嶽三十六景の中でも特に有名な「神奈川沖浪裏」が頭に浮かんだ。あの絵に描かれた波頭のカタチとまったく同じなのだ。「波ってあんなカタチしてないよな」とずっと思っていたのだが、あんなカタチをしていたのだ。北斎恐るべし。

© 中村 航 Wataru Nakamura

空が朱に染まり、海が仄かに青みを残すほんの僅かな時間。これをマジックアワーとはよく言ったものだ。ピントは中心付近の波の頭に合わせているが、この光量でも絞り開放ならISO100で1/1600秒が切れる。そのおかげで波は立ち上がり、細かな飛沫の一つ一つまで完全に捉えている。夏の喧噪が去り、浜辺からは人影が消える季節だが、格好の被写体がいてくれたのは助かった。脇役とは言え、彼らがいるのと、いないのとでは大違いだ。

都市の光景 Urban appeal

ひと通り広大な自然を相手にしたら、その反動か次は都市の光景を撮りたくなった。大自然の前では人間は脇役ですらなく、ただの観客に過ぎない。でも都市は人間が作った、人間のための舞台。我がもの顔で歩いていい。近寄り、入り込み、振り返り、仰ぎ見る。そうして感じる都市の息吹を、20mm F1.4でどう切り取るか。包み込むか。

© 中村 航 Wataru Nakamura

「もっと近寄れ」と、自分の中にいるもう一人の自分が言う。超広角ならではのパースペクティブを活かした絵をつくるためには、もう一歩、いや、もう二歩、三歩の勇気が必要。そうやって近寄っていった時の「光景への没入感」は、標準レンズや望遠レンズとはまた違ったリアリティを生み出す。ファインダーを覗きながらアングルを調整し、あとは円形になっているタイルの中心を人が歩いてくれるように念じた。大抵のことは、念じれば叶う。

© 岩木 十三 Juzo Iwaki

歩道橋からの光景。歩道橋を渡る時、必ず下を覗いてみることにしている。基本的にはどうってことない場所にあるのが歩道橋だが、上から見たらまったく想像外の景色が広がっていたりして、驚くこともある。せっかくの明るいレンズだが、めまぐるしく動く都市の雰囲気を表現するため、ここでは逆に目いっぱい絞り込んで、1/4秒のスローシャッター。1/8000秒のような超高速シャッターに慣れてしまうと、わずか1/4秒のブラックアウトが果てしなく長く感じる。

© 岩木 十三 Juzo Iwaki

こういう被写体は水平垂直を正確に出し、きちんと正対して撮らないとおかしなことになる。原則は三脚の使用だが、いつもそれが出来るわけではない。F1.4という明るさが、手持ち撮影の領域をさらに広げてくれたことを実感する。レンズ設計の要件に、ディストーションの抑制は当然入っていただろう。自分としては意地悪をしたつもりだったが、20mm F1.4というスペックを考えたら、光学だけでここまで補正できていれば文句も出ない。昨今はレンズ内でデジタル的にディストーションを補正してしまう技術が珍しくないが、現時点でシグマ製レンズはこれを採用しておらず、Artラインでは今後もその予定はないと聞いている。そういう姿勢も、我々撮り手がシグマをリスペクトする理由の一つ。

© 岩木 十三 Juzo Iwaki

水の中から天に向かってまっすぐ突き出る光の柱。絞り開放、ピントは真ん中の柱に合わせている。手持ちで背景まできっちり写し込むにはISO感度を上げざるを得なかったが、やはりここでもレンズの明るさに助けられたのは間違いない。上下左右に加えて奥行きの表現がこのように出来るのは、いかにボケの量が大きいF1.4とは言え、このぐらい離れれば背景はじゅうぶんにシャープな像を結んでくれるからに他ならない。さらには、水面の暗さから、空に浮かぶ雲、建物の明かり、そして輝く柱に至るまでの一連のグラデーションを見ても、このレンズの素性を窺い知ることが出来る。

© 岩木 十三 Juzo Iwaki

人物が、光景の中からふっと浮き上がる。人間の存在、ひいてはその人の生活や信条までもが、そこに写っているような気がする。今日も一日、必死に働いた。電話をしている相手は家族か、それとも仕事の続きか。そんなことに想いを馳せてしまうのも、カッコよくはあるけれど冷たく無機質な背景と、汗水垂らして働く生身の人間の姿が、決して同化していないからかも知れない。

人のいる情景 On their own stages

「人を撮る=ポートレート」と考えると、もっと焦点距離の長い、中望遠のレンズを連想するかも知れない。でも、普通の人はホリゾントの前でにっこり笑ったり、窓辺に佇んで物憂げな表情をしているわけではない。誰しも、「その人がその人たり得る」環境や状況というものを持っている。そこまで含めて「その人」だという捉え方も出来る。「人」からもう一歩引いて、「人のいる情景」を撮る時、20mm F1.4はその力を遺憾なく発揮する。

© 中村 航 Wataru Nakamura

久しぶりにその街を訪ねて、あまりの変貌ぶりに驚く。すべてが整理され、作り替えられ、洗練されていく。昔の面影はまったく無い。その中で、まるでそこだけ取り残されたようにして在った古い喫茶店。夜はお酒も出すようだが、話を聞くと、朝から夜遅くまでお年を召したマスターが一人で切り盛りするのは大変な苦労があるようだ。そのマスターが何十年もかけて守ってきた空間。その「空気の蓄積」のようなものが、20mmなら写ると信じてシャッターを切る。「おしぼりだってな、ウチのはそのへんの安もんとはちゃいまっせ。分厚いやろ。ええ匂いもつけてるしな」。はい、確かに。

© 中村 航 Wataru Nakamura

左の画像は、ピントを冷水が入っているポットの、注ぎ口のすぐ上、蓋の部分に合わせている。もちろん絞りは開放。被写界深度の浅さや、背景のぼけ味などをご覧いただければと思う。

© 岩木 十三 Juzo Iwaki

北の大地の、果てしなく続く森を見下ろす高台の家で、その家族は暮らしていた。広大な景色の中へずーっとクローズアップして、最後には十数センチまで近づいて、とうとう捕まえた2つの目。撮りたかったのはこの眼差しなんだ。近接の撮影でも、20mmという焦点距離とF1.4の被写界深度は、それでしか撮れない絵を約束してくれる。彼女は小学校2年生。お父さんの首に抱きつく姿はまだまだ子供だけど、レンズを真正面からバチッと見据えるその目はなぜか大人びて見え、ファインダーを覗きながら少しうろたえた。

© 中村 航 Wataru Nakamura

人里離れた山あいに、木工所を営む職人さんを訪ねた。工房に入った途端、おが屑の匂いが鼻孔を刺激する。「構わずお仕事を続けてください」とお願いして、勝手に撮らせてもらう。引きが無い、うす暗い、絶えず動く被写体、という状況は決して撮影向きとは言えないが、20mm F1.4という性能がそれらをすべてカバーした。来る日も来る日もここで家具を作り続ける職人さんの、目には見えないけど背負っているものを写したくて、慎重にピントを合わせた。

© 岩木 十三 Juzo Iwaki

絞り開放。ピントの位置は画面中央よりほんの少し左下、ステンレスの定規に小さな文字が刻まれているあたり。被写界深度の浅さ、前/後ボケ、シャドウの粘り、コントラストのつき方などがよくお分かりいただけると思う。

© 中村 航 Wataru Nakamura

今、撮り終えて。

繰り返すけれど、今のところ、35mm判フルサイズをカバーするデジタルカメラ用レンズで20mm F1.4というスペックを持つレンズは、この世にこれしかない。それはつまり、このレンズは私たちが今まで体験したことがない光景を見せてくれる、という事実の言い換えでもある。

広い画角と浅い被写界深度によって、「超広角レンズによる表現」をさらに幅広く、さらに自由にしてくれた。それが今、一番強く感じていること。

例えば上の写真。これがF3.5やF2.8だったら、いやF2でもこうは撮れなかっただろう。遠近感を強調しつつも、その中のある一点だけを強烈に際立たせ、引き寄せる。昔、親に買ってもらった「とびだす絵本」みたいじゃないか。

冒頭にも書いたように、そこには他のファクターも存在する。美しいボケ味や、ピントピークとボケ部分の明瞭な分離がなければそもそも成立しないし、そのためには高い解像力がなければならない。各収差の良好な補正や発色、コントラスト・・・そういう基本性能がバランス良く組み合わさって初めて、その上に20mm F1.4という性能を乗せることが出来る。

これら基本性能の高さについては、シグマにはFoveonというセンサーがあり、それをベースにレンズの開発を進めていることが大きい。シグマは、他社ボディ向けの交換レンズにおいても、あのFoveonセンサーでじゅうぶんな結果が得られるようにチューニングをしている。

これで我々撮り手にとっては、新しい筆が一本増えたことになる。それは代用が効かない筆でもある。その存在は大きい。