

40mm F1.4 DG HSM | Art Impression
40mmといえばF値が2.8程度の小さなレンズを想像するが、本レンズは実に威風堂々な出で立ちだ。F1.4とはいえ、この重量とサイズは必然たる理由があってこそなのだろう。そうでなければ、おかしい。焦点距離をみれば、おそらく映像用途をもターゲットにしているのであろう(センサーサイズを鑑みて)。映像の世界では鑑賞時の拡大倍率もなかなかなもので、レンズに対するスペック要求は大変厳しいものがある。もう、撮らずともその写りは想像がつく。ボディはいつもの5千万画素オーバー機。まず間違いなくレンズが負けることはないだろう。標準域の大口径ということで、ポートレートとスナップでテストしてみた。
モデルは、安島萌さん。主に舞台で活躍する俳優。日頃スチルの撮影は、その仕事に絡むようなカットが大半だそう。したがって、できるかぎり彼女がもつ素の雰囲気を写し込むことに注力した。こんな撮影に40mmという焦点距離はなかなか都合がよい。85mm近辺であれば、どうしても被写体に切り込んでいきたくなる。85mmあたりに比べれば、40mmでも実際の姿形とはズレが生じるため若干引き気味で撮る方が姿形も自然に写る。これに画角が相まって、初対面の人を写すにはちょうどよい距離感。本カットも、ひとつ上のカットも、トップライトに近い状態のかなり硬い光。レンズのテストには意地が悪いといえば悪い。しかし、すばらしい描写だ。ピントピークは鋭利に立つ。しかし嫌な硬さはない。アウトフォーカス部分を見ると、量感もありつつ実に自然なボケ味だ。なんというヌケのよさだろう。
ほぼ逆光で撮影。ローパスレス・5000万画素オーバーのボディで、“真実のピント”がしっかり写るボディに、それに応えるレンズだ。老眼の進んだ目ではもはやピントを送れない。背面液晶でライブビューで撮影する。ピントを送ると、アウトフォーカスから合焦していくさまは、まるで生きものを見るかのように美しい。テストする立場からすれば、もっと低画素機で解像度の低いレンズの方が助かるのだが。。当日はかなりの気温であり湿度もそれなりにあったのだが、この逆光で露出を抑えなくても淡く色が抜けることもなくシャープなことも手伝って、狙い通り清涼感溢れる画となった。
日頃から人前で何者かと成り、演じる彼女。レンズを向ければ、なにかしらを纏ってはくれる。しかしこちらから何一つ要求を出さないことから悟ったのか、リラックスして撮影に臨んでくれた。レフすら使わない、手持ちの”ありのまま”の撮影。顔に落ちる影を許容範囲に収めて、露出を決めるとシャツはほぼ飛んでしまう。レンズが優秀でなければ、こうは撮れない。歪曲もまったくといっていいほど感じられない。
開発者から怒られそうなカット。旧車の窓越しで、経年変化から窓は焼けて虹色に。おまけにかなり開け気味の露出で、なんのテストにもならないシーンだ。40mmという画角が、こういうことをやりたくなる。しかしボケ味には相当気を配ったのだろう、前後ともになんとも言えぬ、しみじみする佳さを感じる。特筆すべきは、ハイライトのエッジに収差がほとんど見られないこと。
最短まではいかないものの、かなり寄って。40mmといえど、ピントはかなり薄い。しかし、40mmにF1.4開放というのは面白い。
海辺に立ってもらう。想像はしていたものの、見事に“合成”のような画になった。ズバ抜けた根源的性能の高さは、ピントピークを浮き立たせるのだ。そして標準以上の焦点距離だと、画角や圧縮効果の関係上出せない雰囲気なのだ。
逆にピークを外してみる。映像の世界はすべてがジャストにピントが来るわけではない。動体にもピントは徐々に追従しつつピークに達する。そんな雰囲気をスチルでイメージしてみる。こんな遊びが楽しめるのも、かなりの次元での性能担保がないと難しい。
モデル:安島 萌(あじま もえ)さん
音大で声楽を学び、現在はおもに舞台俳優として活躍中だが、声を張り体を張る現場に立つ人ながら、その場を柔らかにつつみこむ空気を纏うのが印象的な彼女。

次元の違う描写を、普段に。
〜スナップ撮影〜
普段使いには大きく、重いのだが。しかしこのレンズがもつ根源的性能の高さは、ちょっと違うアプローチを楽しんでみたくなる。余談なのだが、上のカットは、桟橋の手前にピークを置いた。歩いてきた男性をわざとピークから外してみたのだが、この写りを見て映像に疎い自分にも、4K UHDで映像を撮ると面白いと感じさせられた。男性が歩くさまを”映像”で想像してみて欲しい。
ここまで次元の高い描写性能であると、ピントの置き所を実に考えさせられる。そう、ウクレレに置くのだが、奥なのか、真ん中か、はたまた手前なのか。むしろフィルム時代のほうが考えていたように思う。写りが確認できないから。デジタル時代になってしばらく経つが、時代の節目を迎えているように思う。フィルム時代以上に、撮り手のイマジネーションそしてトライ&エラーの積み重ねが問われる。もう、そこまで行ってしまっている“キカイ”に、ボディもレンズもなっているのだ。
なんの淀みもない空間は、そのようにしっかりクリアに写り、ガラス越しであればその様が手に取るように写る。
マテリアルの質感、拡散する光、湿度さえあますことなく写り込む。
敷地内の樹木が光をディフューズする。柔らかい光がコンクリートの硬さと質感を伝えつつ、それを包み込む状況をリアルに写し込む。そう、見たままなのだ。
空を雲が覆い尽くす日。空調で設えられた空気と混じり合うその雰囲気もご覧のとおりだ。
思い詰めて、手に入れて欲しい。
これほどのモノを与えられて、さて、自分になにが撮れるだろうか。今回のテストで考えさせられた。なにが撮れるかではなく、なにを撮るか。その意志が明確にないと、せいぜい振り回されて宝の持ち腐れだ。自分のやりたいことにフォーカスすればよい。そのことを確実にアシストしてくれるレンズだと感じた。サイズも重さも納得の写り。手にすれば、撮るという行為の起点を確認される、そんなレンズだ。