

105mm F1.4 DG HSM | Art Impression
そもそもボケとは、「ピントが合っていない部分」を指す総称であった。だから写真においてそれほど大事な要素ではなかったし、ましてや主題となる被写体を差し置いて、そこに目が行ってしまうようなものでは断じてないハズだった。
ところが、である。ピントが合っていないのに、それを(こともあろうに)「味わい」などと称してとやかく言い始めたのは、われわれ日本人である。欧米人にとっては単なる”out of focus”でしかなかったものを、写真における表現手法の一つとして確立させてしまったのだ。最初、彼らにとっては理解し難いものだったに違いない。「日本人はいったい何を言ってるんだ?」と。やがて「ははーん、あいつらが言っているのはそういうことか」と理解され始めるわけだが、”out of focus”という「状態としての」ボケではなく、「表現としての」ボケを表す言葉が外国語には無い。そもそも概念が無かったのだから当然である。それでついた呼び名が”bokeh”。今や写真用語として世界共通で使われているのはご存知の通りだが、その歴史は意外にも浅く、活字になった初出は1997年、米国のカメラ雑誌とのこと。
今回シグマから発表された「SIGMA 105mm F1.4 DG HSM | Art」は、Artシリーズのフルサイズ用F1.4レンズの中では最長の焦点距離となるレンズだ。もはやシグマのお家芸と呼んでもいいと思うが、このレンズもまた堂々としている。昨年の3月、SIGMA 135mm F1.8 DG HSM | Artが出た時にF1.4の可能性についてシグマの担当者に尋ねた時の答えは、「F1.4でも設計をしてみたが、現実的ではないほど大きくなってしまった」だった。それがここに来て、105mmという絶妙な落としどころをシグマは見つけてきた。思わず半笑いするぐらいの大きさはあるものの、「現実的ではない」と言うほどではない(現に今ここにあるし)。それにしても、まさか単焦点の105mmを出してくるとは。言われてみれば、確かにゴール前にぽっかり空いたスペースだったかもしれないが、これは想定外だった。
さて、このレンズには別名がある。その名も”BOKEH-MASTER”。このレンズのボケに対する、シグマの自信が伺える。もちろんボケだけでいいレンズと呼べるわけではないが、そこはシグマ、解像感やシャープネス、各収差の補正が申し分ないものであることは撮る前から想像がつく。またそのボケにしても、主題となる被写体の引き立て役に徹するという「躾」はきちんとされているに違いない。では、実際に見てみよう。
ポートレート
「ザ・ポートレートレンズ」たる85mm F1.4というスペックを持つレンズが、すでにシグマのArtラインにある。その差20mm。使い方がまったく違って来る、というほどの差ではないが、取り得る被写体とのディスタンスや、それによってもたらされる作画の自由度という点で、105mmが多少水をあけられてしまうのは致し方ない。しかし背景のボケという面から見れば、その20mmの差が一転して強みに変わるのは説明するまでもない。もちろんそれはボケの「量」だけでなく、「質」の面でもしっかりとコントロールされていることが大前提ではあるのだが。その点、この105mm F1.4 DG HSM | Artはどうだろうか。
いずれも開放での撮影だが、背景のボケはまさに「蕩(とろ)ける」という言い方がぴったり来るではないか。「蕩ける」というよりは「崩れる」と言った方がいい汚いボケや、要らない色つきを伴うボケはたくさんあるが、これは見事だ。当然、自分と被写体、背景との位置関係によってはその「蕩け」の中にも芯が残り始めるが、決して強い主張をしないマイルドなもので、人物の輪郭線との目障りなコンフリクトはない。一方、合焦部分に目を転じると、髪の毛一本一本の解像力ぐらいはもはや当たり前で、今さら驚くにも値しないが、髪の毛のキューティクルの感じまで伝わってくる描写力は、このレンズの実力がボケだけではないことを証明している。年代の違う三者三様の肌の質感や、点光源の描写もよく見てもらいたい。
スナップ
スナップ撮影にセオリーはない。使うレンズにも制約はない。ヨンニッパで街中をスナップしたって一向に構わない。しかし現実には、一般にスナップ撮影に求められるフットワークや瞬発力、さらには周囲の目といった要素(言うまでもなく、現代では十分に配慮する必要がある)まで考えると、広角側はいざ知らず、望遠側では105mm、せいぜい135mmあたりが限界ではないか。もちろん単焦点レンズの場合の話だが。しかし、限界ゆえのメリットはたくさんある。
ひとくちにスナップと言っても、広角レンズを使う場合と望遠レンズを使う場合では、そもそも撮ろうとする写真がまったく違うのでこれは比較の話ではないが、そのメリットとは圧倒的な作画のしやすさだ。水平垂直にそこまでの神経を使う必要はなく、被写体は画面の理想のポイントに、理想の大きさで(半ば勝手に)収まってくれる。そして最後に、主役である被写体にスポットライトを当てる役目を担うのが、背景の大きなボケである。その時点で、余計なものの写り込みの問題は自ずと解決されており、画面整理は完了している。どうってことのない光景が、途端に絵画的になる。AFのスピードが思わず感心してしまうレベルであったことも、ここに付け加えておくべきだろう。
花
105mm F1.4と聞いて思い浮かぶ被写体は何だろうか。ここでは最後に花を取り上げてみたい。花は、しばしば擬人化される。特にファインダーの中では。だからその撮影アプローチはポートレートに似たものがある。もっとも美しく見えるアングルを探り、光の状態を見極め、そして最後に背景が適切であることを確認してシャッターを切る。人間と違うのはこちらのリクエストにはいっさい応えてくれないことだが、ここでもやはり、花をふっと浮き上がらせる、質のよいボケが必要だ。さらには、花弁や葉のみずみずしさ、柔らかさといった質感表現では、人間を撮る時以上のものが求められる。花というのはなかなか手強い被写体だ。
人間にくらべて花は小さい。105mmの焦点距離があるとは言え、最短撮影距離も100cmあるから、どんな構図でも撮れるというわけには行かない。その解決策として、すでに発表されている「SIGMA 70mm F2.8 DG MACRO | Art」を併用するというのは、なかなかナイスなアイディアだ。
Think BOKEH
ボケというのは不思議である。肉眼では決してあんな風には見えていないからだ。ピントが合った部分なら、解像感とか、質感といった「リアリティ」の面からその良し悪しを追求・評価できる。それに対して、ボケはリアリティではなく、完全にイマジネーションの世界だ。好き嫌いの問題だ。だからこそ表現手法として成り立つのだし、”bokeh”と呼ばれて世界共通の価値に成長したのだが。
絞りという機構が、カメラが発明された当初から備わっていたのか、あるいは途中で誰かが考えたのか、詳しいことは知らない。しかしいずれにせよ、絞りを調節して被写界深度、つまりボケをコントロールすることは、撮影というプロセスにおいて、撮影者の意志をそこに込めるための「最後の仕上げ」のように思う。まさに画竜点睛の部分。ただし、ここでコントロールできるのはボケの量、あるいは強弱であって、ボケの質という面で見ると(どんなレンズも絞り値によって多少のコントロールは可能だし、ボケ味を変化させる機構を持つレンズも中にはあるが)、それはレンズ固有の性格に拠る。つまり、自分の好みのボケを得るためには、そういうレンズを探すしかないのだ。幸いなことに、この105mm F1.4 DG HSM | Artに関して言えば、ライバルは一つしかない。よーく見くらべて、じっくり吟味した上で気に入った方を選んで欲しい。繰り返しになるが、シグマはこのレンズに相当な自信を持っているハズだ。