第62回:羽黒山へ
押本 龍一

押本龍一、東京品川生まれ。
82年英語の勉強のため2年の予定で渡米。84年ニューヨークに渡り刺激を受け予定を変更、広告写真スタジオで働き始める。91年フォトグラファーとして独立。95年ニューヨークからロサンゼルスに拠点を移し現在に至る。エンターテインメント関係の撮影中心。近年はライフワークである旅写真に力を入れている。趣味は旅と山歩き。

オフィシャルサイト : http://oshimoto.net/

第62回:羽黒山へ

山形県鶴岡市羽黒町で美しい日の出を迎え、朝陽が眩しい羽黒山大鳥居に大口径標準レンズを向ける。この地域は一週間ほど前に梅雨入りしていたが、雲ひとつない東の空から昇ったお日様に、この日、雨の心配は要らないと確信する。

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + 50mm F1.4 EX DG HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:100 | ホワイトバランス:晴れ | シャッター速度:1/250秒 | 絞り値:F8.0 | 焦点距離:50 mm

6月中旬、日本に帰国していた私は、友人の運転で夜10時過ぎに友人宅がある埼玉県から北上し、一睡もせず山形県羽黒町に向った。アメリカに住んでいると夜間の日本の高速道路がとても明るく感じ、きれいで飲食にも事欠かないサービスエリアが楽しい。山形県内に入ると、思ったより早く東の空が白々と明るくなりはじめる。5時前だったが、県道47号線(羽黒街道)に建つ大鳥居に来ると陽が昇った。私と友人は、羽黒町に到着したら仮眠を取るつもりでいた。しかし、朝陽を浴びると眠気がどこかに行ってしまい、午前中に出来るだけ動き、疲れたら昼寝でもしようということになり、羽黒山の出羽三山神社までの参道を登ることにした。以前から日本の山岳信仰に興味があった私は、修験道で有名な出羽三山と呼ばれる地に一度は足を踏み入れたいと思っていた。帰国の際にこのことを友人に話すと、彼も興味があるというので、男2人で旅に出たのだった。

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山形県鶴岡市から羽黒山に至る山形県道47号線(羽黒街道)に立ち、高さ22.5mの両部鳥居に向いすばやく撮影。

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + APO 120-400mm F4.5-5.6 DG OS HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:200 | ホワイトバランス:晴れ | シャッター速度:1/250秒 | 絞り値:F8.0 | 焦点距離:214 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:4704 x 3136 | ファイルサイズ:6.47 MB

鳥居から羽黒街道を東へ走り、出羽三山神社の表参道の駐車場に車を停め、そこで立ったまま朝食を取った後、石の鳥居をくぐり、神域との境界を成す大門と言われる随神門(ずいしんもん)の前に出る。随神門の右手前に天拝石(てんぱいせき)と呼ばれる石があり、杉の森の隙間から朝陽がスポットライトになって天拝石を照らし、早くも感動的な光景に出会う。

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朝6時過ぎの羽黒山の表参道入り口はまだ薄暗く、人影はなかった。石の鳥居の向こうに見える屋根付きの門が随神門。随神門をくぐる前も、私には既に神秘的な空間に感じた。

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + 17-50mm F2.8 EX DC OS HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:100 | ホワイトバランス:晴れ | シャッター速度:1/50秒 | 絞り値:F5.6 | 焦点距離:23 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:4704 x 3136 | ファイルサイズ:11.03 MB

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朝陽が注連縄を力強く演出する。天拝石の前に立つ案内版には、「この奇石を通し、天を祭ったもので、その昔修験者の行法を行った場所の石と思われている。麓桜小路安藤太美彌宅前にあったものを昭和16年3月に移転」と書かれている。

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + 85mm F1.4 EX DG HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:200 | ホワイトバランス:オート | シャッター速度:1/60秒 | 絞り値:F5.6 | 焦点距離:85 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:4704 x 3136 | ファイルサイズ:12.68 MB

「左右に悪霊の侵入を防ぐ門番の神々(随神)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)と櫛石窓神(くしいわまどのかみ)が剣と弓矢をもって鎮座しています。明治の神仏分離以前、この門は仁王門と呼ばれ、仁王尊と左大臣・右大臣が鎮座していました。これは元禄8年(1695)に由利郡矢島の領主生駒讃岐守(いこまさぬきのもり)が、家運の反映と極楽往生を祈って寄進したものといわれます。人の世界と、ご神域である山を分かつ、随神門。ここをくぐるといよいよ羽黒山に入ってゆきます。」と羽黒町観光協会のサイトにあるが、随神門をくぐりぬけると神聖な雰囲気が漂う森が広がり、深い森の中を下って行く。つまり随神門からは下り坂になり、いきなり神域に吸い込まれて行くようで、参道のはじまりは実にドラマチックで心も躍る。

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随神門からは、継子坂(ままこざか)と呼ばれる石段の坂を、森の奥深くに吸い込まれるように下って行く。坂の名の謂れは、女が幼い継子をこの坂の下につき落とし、子は母を探してはい歩き、石段に小さい足あとを残したという悲しい昔物語に因る。

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + 8-16mm F4.5-5.6 DC HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:200 | ホワイトバランス:モノクローム | シャッター速度:1/40秒 | 絞り値:F8.0 | 焦点距離:8 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:4704 x 3136 | ファイルサイズ:7.60 MB

継子坂を下ると、101末社(ひゃくいちまっしゃ)と呼ばれる小さなお宮が建ち並んでいる平らな場所に出る。私はこの場所がとても気に入り、写真をじっくりと撮りはじめた。しばらくすると、荷を担いだひとりのお婆さんが、脇目も振らず、我々の前を風のように通り過ぎ去って行った。その格好と足の速さから、観光客でない事はすぐに分かったが、友人に「今のお婆さんは何者かな、神様の使い?」と、尋ねる。101末社からゆるやかに参道を少し下ると祓川(はらいがわ)に架かる赤い欄干の神橋を渡り、須賀の滝へ行く。滝は、江戸時代の初め、天宥別当(てんゆうべっとう)が、農業用水として月山より8kmの水路を引いたもので不動の滝と名づけられていた。参道わきに杉を植え、慶安元年(1648)から13年の歳月をかけて、山頂まで1.7km続く参道の2446段の石段も敷設した天宥は、『羽黒山中興の祖として高名で、17世紀の羽黒山執行・別当として最高位についた僧。幕府の高僧天海と通じ、羽黒山を真言密教から天台宗に改宗し、出羽三山を統合支配したが、讒言にあい新島に流された。新島で7年の歳月を過ごし、延宝2年(1674年)10月に82歳の生涯を閉じた。子女教育に熱心に取り組み、島民の尊敬を集め、芭蕉も歌に天宥を偲ぶ句をいくつか残している。』と、山形県のホームページでは紹介している。

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101末社(ひゃくいちまっしゃ)には木漏れ日が差し込み、小さなお宮は、それぞれにその存在感を誇っているように見える。「末社とは、本社に付属し、その支配を受ける小神社」と辞書に説明されている。

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + 50mm F1.4 EX DG HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:200 | ホワイトバランス:オート | シャッター速度:1/60秒 | 絞り値:F8.0 | 焦点距離:50 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:3136 x 4704 | ファイルサイズ:10.01 MB

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神橋を渡り101末社を振り返る。橋の下には祓川が流れる。昔、ここにお参りに来る人はこの川で身を清め、川までを山麓、川からを山上と呼び分け、山上には肉食妻帯をしない「清僧修験」が住み、山麓には「妻帯修験」が住んでいた。

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + 50mm F1.4 EX DG HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:200 | ホワイトバランス:オート | シャッター速度:1/80秒 | 絞り値:F8.0 | 焦点距離:50 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:4704 x 3136 | ファイルサイズ:12.48 MB

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案内書には、そばまで来ると水しぶきがかかるとあったが、この日、須賀の滝から流れ落ちる水量は少ないようだった。滝の前には須賀神社が祭られていたが、滝にさらに近い所にある黒龍、青龍、白龍と刻まれ祀られた像に惹かれ、大口径望遠マクロレンズでシャープに切りとる。

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + APO MACRO 150mm F2.8 EX DG OS HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:200 | ホワイトバランス:晴れ | シャッター速度:1/60秒 | 絞り値:F8.0 | 焦点距離:150 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:4704 x 3136 | ファイルサイズ:11.67 MB

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滝から参道に戻る際の光景。朝陽が差し込み、石灯籠を覆う苔と木の葉が、美しい自然界の緑色として輝いていた。

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + 85mm F1.4 EX DG HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:200 | ホワイトバランス:晴れ | シャッター速度:1/160秒 | 絞り値:F5.6 | 焦点距離:85 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:4704 x 3136 | ファイルサイズ:10.44 MB

滝から参道に戻り少し歩くと、樹齢1000年を越すと言われる杉が現れる。そのすぐ側には平安中期(931年~938年)の間に平将門の建立と伝えられ、室町時代前期(1368年~1375年)の間に再建と考えられ、慶長13年(1608年)、出羽山形藩主、最上義光が修造したとされる羽黒五重塔が建っている。釈迦の遺骨を奉安するのが起源の五重塔が、神社である羽黒山にあるのは不思議だが、羽黒山の伝説と一般的な資料によると、592年、第32代・崇峻(すしゅん)天皇が蘇我馬子に暗殺され、子である蜂子皇子(はちこのおうじ)は難を逃れて京都から舟で北へ向い出羽国由良の海岸に流れつく。そこで三本足の霊烏に導かれ羽黒山に入り難行を積み、観音菩薩の垂迹神(すいじゃくしん・仏教で、仏や菩薩が日本の神々の姿を借り人々の救済のため現れた神)である羽黒権現(はぐろごんげん)の示現を受ける。593年、羽黒山頂に寂光寺を建立し開山。続いて、月山、湯殿山を開き、人々の病苦や苦悩を取り除く霊力があったことから、能除太子(のうじょたいし)と呼ばれる。その後、日本古来の山岳信仰と習合し真言宗を中心に神仏が一体となった修験道(しゅげんどう)の山として繁栄する。江戸時代になると、天台宗の東叡山寛永寺直末となり幕府の庇護で隆盛を極める。明治時代になると、神仏分離・廃仏毀釈により寂光寺は廃寺、羽黒山は出羽(いでは)神社となり多くの建物は取り壊されたが五重塔は逃れ、聖観音、軍荼利明王、妙見菩薩を廃棄し大国主命を祀って出羽三山神社末社である千憑社(せんよりしゃ)になった。よって、昭和41年に国宝に指定され、今日でも羽黒山に五重塔を見ることができる。

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国指定天然記念物である羽黒山の爺スギは、根元周囲11m50cm、樹高48m30cm、目通り周囲8m30cm。明治時代までは、「婆杉」と呼ばれていた同じような杉がそばにあったが、台風により倒れてしまった。

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + 85mm F1.4 EX DG HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:200 | ホワイトバランス:晴れ | シャッター速度:1/60秒 | 絞り値:F4.0 | 焦点距離:85 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:4704 x 3136 | ファイルサイズ:11.69 MB

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純和様の伝統的な手法を厳格に守った素木造りの外観が特徴とされる高さ29m40cmの五重塔が、森の中に溶け込むように建つ光景。地面すれすれまでカメラを落し、超広角ズームレンズで石畳と杉の森を大きく取り入れて撮影。

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + 8-16mm F4.5-5.6 DC HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:200 | ホワイトバランス:晴れ | シャッター速度:1/60秒 | 絞り値:F8.0 | 焦点距離:8 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:4704 x 3136 | ファイルサイズ:12.22 MB

五重塔を過ぎると、参道は急な上りになる。写真を撮りながらゆっくりと歩いて来た我々を、朝見なかった観光客が追い越して行く。ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンが、わざわざ訪れる価値のある場所として三つ星に選んだ樹齢350年から500年を越す老杉に囲まれた石段の上り坂は、思った以上にきつい。上り坂は一の坂、二の坂と名づけられ、きつい二の坂を登って行くと茶屋があり小屋の中に入ると、「今まで取材してたの?」と、茶屋で働くお婆さんが話しかけてくる。早朝、101末社で、風のように過ぎて行ったお婆さんだ。お客さんとの会話から年齢を察したが、毎日歩いて登って来ると言う脚力は、神がかりだと言うしかない。

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所々に陽の光が差し込む美しい光景。新たに生まれ出るための産道と伝えられる山道を、70歳前後と思われる老夫婦が、休み休み一生懸命登って行く。

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + 17-50mm F2.8 EX DC OS HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:200 | ホワイトバランス:晴れ | シャッター速度:1/60秒 | 絞り値:F5.6 | 焦点距離:50 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:4704 x 3136 | ファイルサイズ:16.99 MB

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夜になると光を放つと言われる螢石の一種とされている「火石」の横を通り、さらに登って行く。

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + 50mm F1.4 EX DG HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:200 | ホワイトバランス:晴れ | シャッター速度:1/60秒 | 絞り値:F7.1 | 焦点距離:50 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:4704 x 3136 | ファイルサイズ:14.48 MB

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一の坂、二の坂を登って行くと、茶屋(二の坂茶屋)がある。ここまで登ってくる人のほとんどは庄内平野が一望できるこの茶屋で休憩するに違いない。

使用機材:SIGMA DP2X | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:100 | ホワイトバランス:晴れ | シャッター速度:1/125秒 | 絞り値:F6.3 | 焦点距離:24.2 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:2640 x 1760 | ファイルサイズ:4.92 MB

茶屋で一休みすると再び急な石段を登りはじめる。何とかマイペースで登って行くと参道がなだらかになり、三の坂がはじまる辺りから右へ逸れる道がある。その細い山道を400mほど歩き、「おくのほそ道」の旅で芭蕉が泊まった別院、紫苑寺の跡、通称「南谷」に行く。南谷には、鳥を追っている年配の男性が3人いて、皆長靴をはいている。そして「ここはマムシが出るから気をつけな」と忠告してくれた。芭蕉が羽黒を訪れたのは元禄2年(1689年)、石段を敷いた天宥の死から15年後である。芭蕉一行は、6月3日(新暦で7月19日)、出羽三山の門前集落・手向(とうげ)に到着後、図司呂丸の案内で、日の落ちた羽黒山参道を登り南谷にたどり着いた。芭蕉がこの地を訪れたときと、周囲の景色も雰囲気が違うのかもしれないが、杉並木の石段から南谷に来た私には蒸し暑いだけで、芭蕉がこの地で句を詠んだという以外に特別な場所には感じなかった。

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参道から逸れて南谷に向う道は、緑深い森の中を歩くと、両脇に大きな杉の木に囲まれた石段からは見えなかった青空が見える。芭蕉がこの地を訪れたときは、参道の杉並は今より低く、空がもっと見えたかもしれない。

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + 17-50mm F2.8 EX DC OS HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:200 | ホワイトバランス:晴れ | シャッター速度:1/200秒 | 絞り値:F8.0 | 焦点距離:30 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:4704 x 3136 | ファイルサイズ:12.02 MB

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芭蕉が泊まった南谷の別院跡の周りを歩く。芭蕉は、「有難や雪をかほらす南谷」と詠んだ。梅雨入りして1週間の晴天のこの日、気持ちのいい冷ややかな風は吹かなかったが、私が鈍感なだけかもしれない。

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + 17-50mm F2.8 EX DC OS HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:200 | ホワイトバランス:晴れ | シャッター速度:1/125秒 | 絞り値:F8.0 | 焦点距離:33 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:4704 x 3136 | ファイルサイズ:18.08 MB

マムシが怖かった私と友人は、芭蕉が訪れた南谷に長居はせず参道に引き返した。三の坂を登り始めると2人の間の会話が途絶えた。2人とも疲れていて登るペースが落ち、特に私は5m登ると一休みするぐらいの遅いペースになった。いよいよ山頂の鳥居が見えてくると、昨夜一睡もしていない体の疲れはピークになった。

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やっと見えてきた羽黒山の山頂入り口の鳥居。陽の光を遮断する杉の木がなかったらここまで登れただろうか。鳥居をくぐると羽黒山の頂上に出る。随神門から1.7km、標高は僅か414mだが、私にはその何倍の距離と標高に感じた山道だった。

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + 8-16mm F4.5-5.6 DC HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:200 | ホワイトバランス:晴れ | シャッター速度:1/60秒 | 絞り値:F8.0 | 焦点距離:8 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:4704 x 3136 | ファイルサイズ:12.66 MB

羽黒山の頂上に到達すると、石段を登った私たちを追い越して行ったのは10人もいないが、その何倍もの人がいて写真を撮ったりおみくじを引いたりしている。頂上にいるほとんどの人は、山の南側から車で上って来ていた。頂上には、平成12年に国の重要文化財に指定された月山・羽黒山・湯殿山の三神を合祭した大きな三神合祭殿(さんしんごうさいでん)が建つ他にも、由緒ある立派な建造物がいくつも建っている。しかし、石段を登って来た私は何故か頂上を散策する興味をあまり持てなかった。

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三神合祭殿前の鏡池。年間を通しほとんど水位が変わらない神秘な池として古くより信仰をあつめ、古書に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませ、この池を神霊そのものと考え古来より多くの人々により奉納された銅鏡が埋納されているので鏡池という。

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + 85mm F1.4 EX DG HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:200 | ホワイトバランス:晴れ | シャッター速度:1/100秒 | 絞り値:F8.0 | 焦点距離:85 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:4704 x 3136 | ファイルサイズ:14.72 MB

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三神合祭殿内。左に湯殿山神社、中央に月山神社、右に羽黒山の出羽神社が祀られ出羽三山神社と呼ばれるが、地図上でも羽黒山の案内図でも出羽神社の名前を見ないので、出羽神社の存在が何となくよく分からないのは私だけだろうか?

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + 17-50mm F2.8 EX DC OS HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:200 | ホワイトバランス:晴れ | シャッター速度:1/30秒 | 絞り値:F4.0 | 焦点距離:23 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:4704 x 3136 | ファイルサイズ:7.70 MB

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巫女さんの髪を束ねる銀色のリボンが印象的だった。巫女さんに三つの神社の神様がここに集められている理由を尋ねると、月山と湯殿山は冬の間雪に閉ざされるのでここにまとめ、月山が一番位が高い山だから中央に祀っていると言った。

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + 85mm F1.4 EX DG HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:200 | ホワイトバランス:晴れ | シャッター速度:1/60秒 | 絞り値:F3.2 | 焦点距離:85 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:3136 x 4704 | ファイルサイズ:6.50 MB

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先祖の御霊を供養する霊祭殿。出羽三山は古くから祖霊安鎮の山とされ、先祖の御霊を供養する風習が現在も盛んに行われている。風車と昭和58年に再建された霊祭殿の色がマッチしていて、明るい空気に疲れも忘れる。

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + 17-50mm F2.8 EX DC OS HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:200 | ホワイトバランス:晴れ | シャッター速度:1/200秒 | 絞り値:F8.0 | 焦点距離:30 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:4704 x 3136 | ファイルサイズ:13.89 MB

私と友人は帰りも石段を下りて行くつもりでいたが、前夜寝ていないことを考え、時間をセーブするためにバスに乗り下山した。バス代は短い距離にしては高いと思ったが、これは羽黒山有料道路を通るためだった。下山すると、宿泊するホテルがある酒田港に向った。宿坊が沢山ある羽黒町でなく40km以上も離れた酒田港近くに宿を取ったのは、温泉付きにしては安いホテルだったというより、縁のあまりない日本海も見たかったからだ。予定より早めにホテルに着き鍵をもらい、海風が気持ちのいい港の周りを散策し、海鮮市場で酒のつまみを買い、ホテルに戻った。

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酒田港周辺を走ると木が積み上げられていた。そばにいた作業員に訊くと、山形の森から運ばれてきたと言う。日本海からの海風に吹かれながら、この日見た杉の森を想う。

使用機材:SIGMA SD1 Merrill + 50mm F1.4 EX DG HSM | 露出モード:M-マニュアル露出 | ISO感度:200 | ホワイトバランス:モノクローム | シャッター速度:1/250秒 | 絞り値:F8.0 | 焦点距離:50 mm
ファイル形式:JPEG | 画像サイズ:4704 x 3136 | ファイルサイズ:7.58 MB

この夜、私と友人は前夜寝ていないことも忘れ遅くまで飲んだ。蜂子皇子は、難を逃れて京都の由良から舟で北へと逃げ北へ向かう航路で、絶壁の岩上で笛の音に合わせて踊る八人の乙女を見て、その美しさに魅せられ上陸したと伝えられ、現在の鶴岡市の八乙女浦の名の由来だとされる。2人が羽黒山から遠く離れた日本海岸沿いに宿泊したのは、難行を積み霊力を身につけた蜂子皇子の導きだったのかもしれない。

※ このページに掲載された作品は、RAWデータ(X3F)を「SIGMA Photo Pro」で現像処理をしたものです。
一部、現像後にゴミ取りのためにレタッチソフトウェアを使用した画像もございます。

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